カテゴリ: リスカアムカ
13の理由 リスカの女の子
いじめ・うつ・自殺・スラットシェイミング・性暴力などタブー視されがちな問題に鋭く切り込んでいる。
一方で、自殺のシーンなどがリアルでティーンエイジャーが見るには不適切なのではないか、自殺願望を助長するのではなどメンタルヘルス団体や学校、視聴者からの批判も多く、議論を呼びました。
私も娘がこのドラマを観ていてドキッとしたんですよね。でも反対に観たい、と思いました。理解したい、と。
だからこそ、孤独を感じている人や今悩み苦しんでいる人こそ見るべきかもしれない。
そしてだからこそ大ヒットしたのと同時に、大ヒットしたのは、悩んでる若者が物凄く多いということ。
だからこのドラマに関しては「あなたは決して一人ではない」という事を感じられると、思いました。
思春期の子どもたちの成長は著しく、大人にはどうやってもどうやっても追いつけない。全てを分かり合えるどころか、少しでも理解してあげる努力しかできない。
でも彼女たちが幸せになる鍵を、掴むのは本人でしかない事も親は知ってる。
もどかしいけど、SOSには気がついてあげる以外は、ただ見守る事も必要なのだと思った。
覚え書きと今日読んだ本
アームカット 二本。
仮眠気味
再会 新たなカットの跡なし。
小さなアムカが増えた。
でもさ。おおよそ 3週間以上我慢したんだね。
強い子だな、、と思ったと同時に そばにいてあげられない事がもどかしかった。
コンプリメントの森田先生と電話相談。離れているコンプリメントは効果が薄いという。
ただ、不登校なわけではないので何日で登校する、とかではないから時間をかけて、親子の信頼関係を作ることは、不可能ではありません。とのこと。
自信の水を貯める事。自己肯定感を上げる事。
「電話ありがとう。サヤの声はママを元気つける力があるね、嬉しい。」
「何があっても愛してるよ」
「大変だよね でも頑張る力があるね」
「生まれてきてくれただけで充分魅力的な人だよ」
「動物に優しくする力がある、嬉しいな」
彼女の心に届いてるかも分からないメールの数々。そして心から思って書いてる。それでも既読にはなっている。
昨日サヤからメールが届いた。
「ホースセラピーも続けるけど、乗馬を0から習いたいんだけど。」と。
小さな頃から乗馬が好きだった。学校以外の休みは全て山でスキーに費やしてきたので、乗馬も中々習う時間がなかった。乗馬どころか 友達と遊びに行くこともほとんどなかった。
サヤは まだスキーに関しては言及はないけど 触れなかった。その時期じゃないと思った。
ここで 私はいつもならば 嬉々として娘の住むカナダの近くのあらゆる乗馬クラブを調べ、一番良さそうなところを選び予約を取ってあげたと思う。
でも今回はこう言った。
「新しい事を始めようとする勇気や力があるね。もちろん乗馬いいと思うよ。自分で習えるところ探してごらん?」
何でも先回りして準備して応援してきた母親としての 過干渉を反省していたから。
サヤは自分でいくつかの乗馬クラブに自分でメールを打つことにしたらしい。
一進。と思った。
悠々ホルンさん。
もう一週間以上声をきいていなかったので 電話を促してサヤと話した。
「なんの話?」
「声が聴きたいだけだよ~」
嫌々でした。そして元気もなかった。。。どうしたらいいのかな。
私は責めないように質問責めにしないように元気そうに話したけど 的違いなんだろうな・・・
落ち込みます。涙
悠々ホルンさん
この方の動画や文章を読むと 涙が止まりません。
今日見つけた記事 うつとリストカット
近年新しく「うつ」と呼ばれるようになった病態(第5回参照)の中には、リストカッティング(手首自傷)などの自傷行為や、過食・嘔吐などの摂食障害を伴うタイプも存在します。
そのような病態では、パーソナリティの基盤となる「自己愛」の部分に問題を抱えていることが多く、通常行われているような休養や薬物療法中心のアプローチでは解決が困難で、適切な治療に出会えずに経過が長引いてしまっているケースも珍しくありません。
今回は、こういった自傷行為や過食といった現象がなぜ起こるのか、また、そこから読み取るべきメッセージは何かといったことについて、考えてみたいと思います。
自己破壊ではなくリセットが目的だった
自傷行為や過食は、その行為自体が奇異で自己破壊的に見えるために、周囲からはネガティブなものと捉えられ、専門家による治療の場面でさえも「今後は決してしないと約束して下さい」と言われてしまうことがあるようです。
確かに、このような症状を消失させることは治療の重要な目的の1つではありますが、それを急ぐ前に、なぜこのような症状が起こっているかを理解しておく必要があります。つまり、症状の意味を汲み取っておくということです。
このような症状を抱えている人たちは、根本のところに「自分自身のことを認められない」「自分を愛せない」といった「自己愛」の問題を抱えており、それゆえ、生きること自体が苦痛に満ちた状態になってしまっています。
自傷や過食にいたる心境を詳細に聴いてみると、「もうやらないようにしよう」といくら意識で止めても、それをしのぐ強い衝動が突き上げてきて、自分が別モードに入ったような解離状態の中で行為に及んでいることがわかります。そしてそれは、自分の中に溜まった歪みをリセットするかのような、一種の自己治療の意味合いを持っているのだということもわかってきます。
「頭」の圧政から解放されたい衝動
「自分自身のことを認められない」状態とは、「頭(理性)」が「あるべき自分」を勝手に設定し、その基準や条件を満たしていない「実際の自分」を嫌悪してしまっていることです。
そのために、普段は「あるべき自分」に近づけるべく「頭」が自分自身を強力にコントロールしていることが多く、コントロールされる側の「心」(=「身体」)はかなりの無理を強いられています。そして、その無理がある程度以上に蓄積されてくると、自傷や過食の衝動が突き上げてくるようになるのです。
つまり、「心」(=「身体」)側が、「頭」によって強いられ生じた歪みをリセットしようとするのが、自傷行為や過食なのです。
愛着障害について
「女友達とタイ料理を食べに行ったよ。」
「どう、元気?」
「うん。元気!」
「彼氏はどうしたの?」
「昨日は彼といたから、今日は親友を優先したの。親友が恋人とまた喧嘩したからって」
「あら。サヤと彼は喧嘩しない?」
「good.しない。今日は少し拗ねてたけど、全然問題ない。」
休みには南国に行きたいなって、言いながら 元気そうだった。青春まっさかりなんだな。
サヤのLINEメールの一言が変わっていた。
「mum and granma and granpa and boo are my life.」
(ママとおばあちゃん、おじいちゃん、そして愛する彼が私の人生。)
皆から、愛されてることはちゃんと伝わってる、と思った。スキーをしなくても愛される、と。
そして、彼女がカウンセリングによって、自分の内を少しずつ見つめ始めた。と思った。
今日は 愛着障害という言葉を見つけたので それについて書いてみる。
闇雲にいろいろ調べているようだが きっと異なったいくつものバズルのピースを全て集めて
いくつものパズルを少しずつはめていくしかないんだろう。
◎ 愛着障害
十代の後半ころから次のような症状が出る人は
・摂食障害 ・自傷行為、 ・OD ・他人に対する攻撃 ・うつ
○ 原 因 は
⑴ 幼少の頃から家庭内に何か問題があり親の愛情を充分に
受けられなかった人にあらわれます たとえば
・虐待を受けて育った人
・両親の不仲などで家庭内で緊張状態が続いた家庭で育った人
⑵ 家庭内になにも問題なく育っても「よい子シンドローム」と言い
幼少の頃からよい子を演じてきた人にもあらわれます
⑶ 幼少の頃から施設や親せき、他人などに預けられ
実の親の愛情を与えられなくて育った
○ 治療法は
原因 ⑴ ⑵ ⑶ 共 同じ治療方法です
*親の了解を得て幼少の頃に返って親の愛情を受けましょう
・スキンシップが大事です → 抱っこ おんぶ など
・甘えたり我儘を言いましょう
*親に甘えられないときは代わりの人でもいいでが心のことの専門家でないといけません
*この治療には 長い年月がかかります
愛着障害の克服に必要なこと
結論から言ってしまうと、愛着障害を克服するためにはしっかりとした「安全基地」を確保することが重要です。
愛着アプローチは、本人の安全基地を強化することで、本人の中に備わっている回復しようとする力を活性化させる方法だとも言える。
愛着が安定化するかどうかは、安全基地となる存在に恵まれ、それがうまく機能しているかどうかだ。
支援者の共感による本人の愛着の安定があってこそ、味わった痛みや寂しさ、怖さといった気持ちとともに、自分の身に起きた出来事を、客観的に振り返ることができ、それを乗り越えやすくさせるのである。
愛着の安定化、言い換えると、安全基地の機能を高めることは、愛着との関連が深い問題だけでなく、たいていの問題の改善に有効だという気がしている。
それは、あなたが幼い子どもだったときのことを考えてみれば当然のことかもしれない。
あなたがつまづいて足をケガしようが、意地悪な友だちに泣かされようが、熱がでて体調が悪かろうが、母親が優しく抱っこをしてなぐさめてくれることは、まるで万能薬のように何にでも効果があったはずだから。
逆に言えば、薬や包帯をどっさりもらったところで、優しく世話をしてくれる人がいなければ、元気になる意味さえないに違いない。
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愛着障害を克服するためには、なによりも安全基地との愛着関係を構築することが重要です。
ただ、それだけでは十分ではありません。ここから先は、愛着障害を克服するうえで、安全基地を確保すること以外にも重要なことを書いていくね。
<満たされなかった子ども心を満たす。>
愛着障害を抱えた人は、回復していく過程で、子ども心を取り戻すという段階を経験する。
回復の過程で、子ども返りをしているように甘えたり、子どもがするような遊びや空想に夢中になったりすることもある。漱石は精神の不安定な時期によく絵を描いた。そのできばえははっきりいって稚拙(ちせつ)であり、あれほどの才筆をふるった文豪も、画才に恵まれていなかったことを明かしている。それでもとても熱心に描いたのは、それが心の安定に役立っていたからだ。小説を書くことによっても、かいしょうしきれない何かを、非言語的な表現行為を行うことで解消しようとしたのである。
<過去の体験を言葉にする>
愛着の傷を修復するためには、安全基地を確保し、子どものころからの不足を取り戻したり、周囲に受け入れられるといった共感的、体験的なプロセスとは別に、もう一つ重要なプロセスがある。
それは、過去の体験を言葉にすることである。
最初は、断片的にしか思い出せないが、それを少しずつ語るのを、支える側は共感しながら受け止めることである。嫌な出来事の記憶をたどりながら、そのときどんな思いであったかを、その人の言葉で語ってもらうことが重要である。たずねられても、すぐには言葉にならないことが多い。なぜなら、まだ一度も言語化されることなく、ただ傷ついた思いだけが、悲しみや怒りといった強い情動とともに渾然一体(こんぜんいったい)となって、心の中に膿(うみ)のつまった袋のような病巣を作っているからである。
必要なのは、その膿を外へだすことであり、そのためには、そのとき味わった思いを、ネガティブな情動とともに言葉にして吐き出す必要がある。
言語化する家庭において、最初のうちは「なんとも思っていない」「気にしていない」といった、問題の所在を否認する場合もある。
その段階を超えると、次は、否定的な感情ばかりが語られる段階に移行する。この段階では、傷つけられた怒りや悲しみを、うらみつらみをこめてたたきつけるように語りつづける。それは、傷が深ければ深いほど、傷を与えられた期間が長ければ長いほど、長期間続くことになる。その間、執拗(しつよう)なまでに否定的な感情が語られるが、そうすることが修復には必要なのである。
根っこから現在の行動をとらえることで、より深い洞察が得られるとともに、呪縛がとけていくことにつながる。実際、過去の体験と現在の生活との思いがけないつながりを知って、感極まり涙を流す人も多い。つまり、愛着の傷となっている体験にまでさかのぼって、現在の行動を理解したとき、人は心を強く動かされ、考え方や行動の修正もおきやすいのである。
過去の傷と向かい合う段階を徹底的に進めていくと、ある時期から変化が見られるようになる。
否定的なことばかりを語りつくした後で、楽しかった経験や親が自分のために骨を折ってくれたことをふと思い出して、「そういえばこんなことがあった」と語ったりするようになるのだ。そのとき、親のことを憎んでいるのではなく、愛しているということに気づくこともある。親を愛し、求めているからこそ、憎む気持ちが生まれていたのだということを受け入れられるようになるのだ。
そして、悲しみと怒りの物語から、愛と許し、そして希望の物語へと転化され、それを一緒に受け止めてくれる存在と共有されることによって、その人を縛り付けていたとらわれは次第に解消され、もっと現実的な力に変わっていく。
過去の体験を言葉にすることで、客観的な視点をもつことができます。
もう一つ、見落としがちだけれど上の文章で重要な点は、「それ(過去の体験)を一緒に受け止めてくれる存在と共有」することです。共有して、受け止めてもらって、共感してもらうことです。
心の奥底にしまいこんでいた過去の体験を受け止めてもらって、それにともなう痛みや悲しみに共感してもらうことで、自分の過去の体験や痛みを自分のなかで受け止めることができる。自分に自信をもつことができる。
安全基地となってくれるサポート役になかなか出会い得ないという場合には、他の方法で安全基地の代わりを求めることも必要になる。
そうしたものとして有用なものの一つは、日記や文章を書くことである。
安全基地とは、自分が求めたときにありのままに受け止めてくれる存在である。「書く」という行為は、黙って話しを聞いてくれる話し相手に似ている。ありのままの思いを表現し、書きだすことは、吐き出すことによるすっきりとした感覚とともに、自分を客観視することにもなる。